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第63回関東島原半島会 島原新聞記事元文
 
2011年5月22日
文責:馬場伯明(幹事)
第63回関東島原半島会開催(ご報告)

第63回関東島原半島会が、2011年5月22日 12:00〜14:30、東海大学校友会館(東京・霞ヶ関ビル35階)で開催された。出席者は来賓を含め205名。東日本大震災2ヵ月後、開催の可否が危ぶまれたが、むしろ被災者等を勇気づけられるという考え方で開催にこぎつけた。その総会と懇親会は、会員の善意と熱気が溢れ、有意義な半島会となり大盛況、成功裡に終わった。

平野康博事務局長の司会で始まった。この1年間に亡くなった会員と東日本大震災の犠牲者に1分間の黙祷を捧げた。

開会宣言は中道利治幹事長。
《 みなさん、こんにちわ。お忙しい中をありがとうございました。実は、3月11日の地震・津波・原発事故で「ちょっとできんかな?」とも思いましたが、役員会で「どがんやろかい?」と諮りましたら、「しょぼくれんで、元気出して行かんと・・。前向いて、是非やろう」となりました。まさに、ぎりぎりのタイミングでした。
今回の大震災とともに20年前の雲仙普賢岳噴火災害を思い起こし、今日は、とにかく、「元気を回復させ、一致団結する半島会」ということで、みなさん、ご協力をお願いします。では、第63回関東島原半島会を開催いたします!》と高らかに宣言した。

福田学会長が挨拶。
《 こんにちは。たくさんのご出席ありがとうございました。長崎県人会の相川賢太郎会長は、先の長崎県人会のときの約束を守り来てくださいました。また、島原市・雲仙市・南島原市の3副市長、元大臣の久間章生先生、松永光先生も迎えることができました。幹事長が言いましたように、3月28日の役員会で、「こがんとき、どがんすっと?」と問いましたら、全員「20年前の雲仙普賢岳噴火災害で頂いたご支援へのお返しとしても開催すべきだ」という意見でした。また、後ほど田代則春先生からお話がありますが、関東島原半島会や高校の同窓会、地元3市一緒になって、島原半島出身の在京者による東日本大震災救援対策本部を立ち上げました。本日は、どうかよろしくお願いいたします。 》

続いて、議事。4つの議題を平野事務局長が進行させる。
1.事業報告:総会や島原半島の県人会・各町人会・高校同窓会・神代の「義士踊り」口之津町の「瀬詰太鼓保存会」への祝い金贈呈などを報告した。
2.会計報告(金子和弘)3.会計監査報告(小畑通夫)4.役員改選

15人の来賓を紹介した後、二人から祝辞をいただいた。
まず、相川賢太郎長崎県人会会長(三菱重工業(株)相談役)
《 相川です。本日は誠におめでとうございます。初めて出席しましたので、自己紹介を兼ねてご挨拶といたします》と生い立ちの話など、ふるさとの話をされ、出席者には深い共感の輪がひろがった。
《 私は昭和2年、長崎市に生まれ、学徒動員により三菱造船で働きました。原爆の直前、熊本(第五高)へ進学したため、助かりました。同級生には犠牲になった者もたくさんいました。大学(東京大)卒業後すぐ三菱(造船)へ入社、蒸気タービンの設計などをしました。60歳の定年後は島原半島で畑を耕す生活をしようと思っていましたら、東京転勤。平成元年から10年間社長をしました。そして、今も相談役として出勤しています。
父は西有家(町)、母は北有馬(町)の生まれであり、今日ご出席の相川洋さんの家が相川の本家です。中学・高校と島原半島出身者の友人も多くいます。島原半島の人たちは、素朴であたたかい心を持っています。島原訛りのある人に悪い人はいません。切支丹(が栄えた)文化のせいなのか、また橘中佐の伝統が残るからでしょうか。両親はずっと島原弁で話していました。今日はなつかしい島原弁の訛りを楽しみにしています。 》
相川会長は、ふるさと島原半島とご両親への思いを熱く話した。

次に、久間元防衛大臣が祝辞を述べた。
《 議員をやめて2年目。ご案内をいただき胸が一杯です。狭い会場や花山の冨田俊子さんらのことが思い出されます。雲仙普賢岳噴火災害では、関東在住のみなさんには大変お世話になりました。海部総理と土井議長を雲仙にご案内しましたが、その日はあの火砕流の前日でした。もし、翌日であったら・・・と。火砕流被害、土石流被害では損害保険の扱いが異なることもあり、どうやって全員を救うのか、長崎県知事や島原市長とともに、表には言えないような苦労をしました。私は、今回の東日本大震災ではいろんな形で応援をしてもらえるよう、NPO法人の設立を申請しました。本日は大震災への支援とともに大いに楽しんでください。》と20年前の雲仙普賢岳噴火災害のときのエピソードと関東島原半島会への思いを語った。

メッセージの紹介(祝電者の氏名のみ)。
中村法道長崎県知事、横田修一郎島原市長、金子原二郎参議院議員・楠大典県会議員、石田徳春雲仙市議会議長、梶原重利南島原市議会議長、

田代則春先生(弁護士)が、関東島原半島(島原市、雲仙市、南島原市)在京者による東日本大震災対策本部の立ち上げと本部長として推進して行く決意を述べ、協力をお願いをした。

《 こんにちは。救援対策本部を設立し取り組むことになりました。幹事長他16人の役目の人たちも決まりました。この大震災に立ち向かい救援活動をどのようにするのかなどを協議しています。私たちは島原半島3市の「陰」となって、多少とも支援できればと考えています。あくまで、3市が基本です。そのために、3市が一層一体化していただきたい、それを私たちが側面から応援をするということです。
先ほど、福田学さん(口之津)、福田博一さん(加津佐)から高額の義援金をいただきました。このような非常時には、知恵のある者は知恵を出し、金のある者は金を出し、汗のある者は汗を出し、その二つ、三つを兼ね備えた者は、その全てを出して協力すべきだと考えております。それぞれの立場で協力して行きましょう。
あまり知られていないことを申しあげます。雲仙普賢岳噴火災害では、全国から230億円の多額の義援金を頂戴しました。東日本大震災より狭い地域、つまり、九州・長崎県・島原半島・普賢岳・・という日本の西の一部の地域に対していただいたのです。救援の物資は倉庫に入りきれないほどでした。みなさん、この230億円、正確には22,958,213,067円(平成6年2月28日現在)という数字をよく認識しておいてください。
私たちは、今回の活動の仮の目標を1000万円(相当)としました。しかし、どのような救援物資・方法・イベントとするのか、まだ決めてはいません。島原半島3市の「陰」となって支援し、被災者に喜んでもらいたいと考えています。
感動したことを2つお話します。
1つは、雲仙普賢岳噴火災害を乗り越え、復興した農地で生産した1万本の白菊を島原花卉生産組合から島原市を通じて、被災した陸前高田市へ届けたことです。
もう1つは、南島原市長と議長が、3泊4日で現地へ乗り込み、被災者を直接励ましたことです。
これから長い支援活動になります。3市一体となった活動に、私たちが何らかの支援を果たすことができれば、本望です。みなさん、よろしくお願いいたします。》

ここから、懇親会に入った。司会は江越香月副幹事長。

まず、松永光 日本武道館会長の乾杯の音頭があった。
《 3月11日の災害で、私は100年前の日露戦争で戦死された橘(周太)中佐のことを思い出しました。中佐は島原半島・郷里の偉人です。くしくも、3月10日は陸軍記念日です。
みなさんのご健康と関東島原半島会のご発展をお祈りして、乾杯いたしたいと思います。乾杯! 》

205人は3市のテーブルに集い、また、席を移動し、東日本大震災・20年となる雲仙普賢岳噴火災害・そして、それぞれの1年間のことなどを語り合った。

今回、3市からは、会場の一角に「ふるさとコーナー」として産品を展示即売した。島原市谷口副市長・雲仙市町田副市長・永門南島原副市長が、身振り手振りで壇上からふるさととふるさと産品の紹介をした。
3市産品の売れ行きは好調、会の終了時には、出席者の協力により、3市ともに「完売!」であった。半島会新幹事となった若い城田泰臣氏(島原市)自身が経営する宅急便サービスの受付をした。

恒例の「お楽しみ抽選会」には、3市長賞他多くの景品が寄せられ、当選した人の笑顔がはじけた。

会場には、東日本大震災への募金箱が設けられ、皆さんから募金した。本日までの募金額は、386,883円である。救援対策本部へ託することとした。

時間は過ぎ午後2時半を回った。閉会の挨拶と万歳三唱を、副会長の3人が行った。渡辺清孝(国見町)、八幡秀昭(島原市)、上村ともえ(口之津町)である。雲仙普賢岳噴火災害20周年へ思いをいたし、東日本大震災被災者等への「報恩!支援」を決意し、来年の再会を誓い、総員、高らかに万歳を三唱した。

2次会は、四谷三丁目のスナック「千々石」(永尾絹子さん経営・雲仙市南串山町出身)に30数人がひしめき、ウイスキーや焼酎の水割りを手に、今日の半島会の話題を語り合い、その余韻を楽しんだ。また、自慢のカラオケを披露した。
あっという間に時は過ぎ、午後7時となった。火照る頬の温みを残しつつ、帰路についた。        

知恵のある者は知恵を出し、金のある者は金を出し、汗のある者は汗を出し、その二つ、三つを兼ね備えた者は、その全てを出して協力すべきだと考えております。

以上