関東島原半島会
       

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関東島原半島会 60周年のあゆみ

1949(昭和24)年 北村西望氏国務大臣・本多市郎先生の「欧州視察の土産話を聞く会」に集まった人たちがきっかけで、郷里の人々の集まる会として、北村西望氏、冨田俊子氏が中心となって呼びかけ「南高会」が発足
会長・北村西望氏(南有馬)、世話人・冨田俊子氏(島原)
 
   
  戦後の混乱期から人々は復興に向かって生きようと必死で立ち上がろうとして頑張っている時「南高会」は郷里の人たちの拠り所として、また、親睦の場として毎年開催され、郷里との一体感をもって、会員相互の親睦と郷里の発展に寄与する活動を続けました。
築地の料亭での皿うどんや島原のチェリー豆に舌鼓を打つ会、深川の清澄公園での家族連れ交流会、井の頭公園での花見会、等々、世話人の方々の善意に支えられ楽しい交流の場へと発展しました。
 
   
   
1957(昭和32)年 南高会の有志と地元の市町村長数名の出席を得て、北村会長の文化勲章受賞祝賀会を開催(とみた旅館)
会員より諫早大水害の見舞金を募り、集まった浄財を、何日もかけて現地に持参して贈呈
1958(昭和33)年 4月 南高会総会(井の頭自然文化園)、家族も含めて120名以上集まり盛会であった
(以降、南高会総会の表示は省略します)
1959(昭和34)年 ふるさと墓参旅行を二回実施、現地で郷里の方々より大歓迎を受けた
1960(昭和35)年 12月 北村会長の喜寿祝いを開催(ニュートーキョー)、多数の会員がお祝いに参加
1961(昭和36)年 3月 島原市体育館の落成祝いに緞帳を寄贈
1964(昭和39)年 4月 島原城復元に際しかわら募金に多くの会員が賛同し復興資金を寄付、城の本丸の瓦に一人ひとりのご芳名が刻み込まれている
1965(昭和40)年 宮崎康平氏(島原)の吉川英治賞受賞祝賀会を開催
 
   
  年に一度の親睦会はその後も続けられ、郷里からも数々の名産品が寄せられ、郷里の人たちを交えての懇親会や観劇会等も含めた、郷土色豊かな「南高会」が家族連れで楽しく開催されました。  
   
     
1971(昭和46)年 6月 副会長に平田敬一郎氏(瑞穂)及び反田邦治氏(口之津)が就任
1972(昭和47)年 11月 島原城内に三層櫓の「西望記念館」が完成、それに伴い多数の会員より寄付を集め島原市に贈呈
1973(昭和48)年 12月 北村会長の米寿祝いを開催(帝国ホテル)
1975(昭和50)年 5月 しばらく中断されていた「南高会総会」(ステーションホテル)が会員の熱望により再開、家族連れで賑わった、また郷里からも多数の方がお土産持参で参加
1977(昭和52)年 5月 長年の懸案であった「南高会名簿」が、品川幸穂氏(吾妻)、吉田光正氏(島原)、安達健二郎氏(島原)等の尽力により発行
6月 北村会長の作品を見学する会を企画、都内の西望美術館他へ鑑賞ツアーを実施
1978(昭和53)年 12月 平田敬一郎副会長の叙勲祝いを兼ねて忘年会を開催(ホテルオークラ)
1980(昭和55)年 9月 富士山麓に家族連れでハイキングをし、現地で餅つき大会を開催し懇親を深めた
1981(昭和56)年 11月 冨田俊子氏逝去
冨田氏の遺志を継いで世話役を田上艶子氏(島原)と吉田光正氏が、事務局長を伊藤悟氏(島原)が引き継いだ
1983(昭和58)年 6月 総会に兼ねて、北村会長の百歳記念祝賀会(品川プリンスホテル)を開催、歌手のディックミネ氏もお祝いに駆けつけ、400人を超す会員が祝福
 
   
  昭和52年発刊の「南高会名簿」の中の、世話人代表、冨田俊子氏の「南高会のあゆみ」に『南高会の誇りは日本一の芸術家を会長として立派な人格者揃ひの副会長を上に、愛郷心の強い会員の皆さんの心が通ひ逢っていることと、今一つ郷里の人々のあたたかな御支援の賜物です。』(原文のまま)と南高会の定義が示されています。戦後の混乱期に創立された南高会は、北村西望会長、冨田俊子世話人のもとで、これまで34年間、故郷を遠く離れて、首都圏で暮らす人々の心に明かりを燈し、頑張っている人たちに勇気と活力を与えました。また、郷土の発展にも色々と貢献しました。  
   
     
1984(昭和59)年 6月 反田邦治氏名誉会長に北村西望氏、会長に反田邦治氏(口之津)、幹事長に馬場哲氏(加津佐)が就任
1985(昭和60)年 1月 島原商高、第63回全国高校サッカー大会選手権大会で優勝(帝京と同時)
3月 松永光氏(南串山)が文部大臣に就任、南高会主催の祝賀会(花山)を開催
1987(昭和62)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会において初出場で準優勝、南高会主催の祝勝会を開催(四谷・有明大飯店)
2月 伊藤悟事務局長逝去
3月 吉田光正世話役逝去
北村名誉会長逝去(104歳)、ご葬儀に南高会会員が多数参列しご功績を偲んだ
5月 幹事長に木原國夫氏(国見)、事務局長に島崎嘉明氏(島原)が就任、また役員として、島原、北目、南目、の三地区に取りまとめ役の常任幹事を指名、同時に「南高会会則」を制定、6月第1日曜日を「南高会の日」とし毎年その日に総会を開催することとした
反田会長が昨秋藍綬褒章の栄誉に輝いたことを祝し記念品を贈呈
1988(昭和63)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で初優勝、南高会主催の祝勝会を開催(花山)
6月 総会(グランドパレス)の参加者が300人を超えた。総会で永田力氏(島原)による「島原半島の歴史と文化について」の特別講演を聞く
島原半島全ての市、町より1名以上の幹事選出を決めた。
島原半島すべての市、町より特産品を寄贈していただき、抽選会を行って参加者へ配布した。(以降毎年継続して実施)
11月 反田邦治会長逝去
 
   
  創立40年を迎えた南高会は会員の世代交代が始まり、伝統のある南高会を守っていくため、相談役に、川田幸敬氏(深江)、吉富仁氏(島原)、安達健二郎氏(島原)、北島照明氏(有明)、宮崎武子氏(島原)を選任し、各氏よりご意見を戴きました。また、新規会員を広く島原半島一円の出身者に呼びかけるため、反田会長のもとで、幹事長・木原國夫氏は、自社の事務所を南高会の事務局として、会の組織と会則作りに取り組み、総会の定期開催の位置づけをしました。また社員の宮城孝氏(長崎)が事務局の仕事に加わっていただき、以降、長年にわたり会計を担当され、会の発展に寄与されました。又、総会に際し地元の一部の市町より頂いていた金銭の寄付を取りやめ、町の特産品を島原半島全ての市町より贈っていただき、出席者へのお土産や、抽選会の景品にして南高会の盛り上げを図りました。  
   
     
1989(平成元)年 4月 会長選出について役員会を開催し有馬冨男氏の推挙を満場一致で決定
  6月 有馬冨男氏会長に有馬冨男氏(島原)、幹事長に渡邊清孝氏(国見)、事務局長に下村弘氏(瑞穂)が就任、また、1市16町全てより1名以上の幹事を選出
各市町より選出の幹事が出揃い郷里の役所との連携が取れるようになった
 
   
  南高会も組織的な運営が軌道に乗り、6月第1日曜日開催の意識も定着して、出席者も大幅に増加し「花山」の会場では手狭になりました。しかし、費用の面と、地元特産品を主体にした参加者へのお土産物作成に関しては、事情を知り尽くしている「花山」に引き続きお願いするしか道は無く、木原國夫副会長が田上艶子社長に、無理を承知でお願いして快く引き受けていただき、継続して「花山」を会場とすることが出来ました。おまけに、9階の全室を開放してテレビを配置し、映像を通して会の状況がどの部屋からも知ることが出来、大変有難いことでした。田上社長の英断により当面の金銭的な危機が救われ、その後の南高会の発展の礎となりました。  
   
     
1990(平成2)年 6月 事務局を渡邊幹事長の会社の事務所へ移転
11月 普賢岳噴火(白い水蒸気)
島原半島広域市町圏組合協議会(森山町も加わる)の国会陳情に合わせ、陳情団と南高会幹部との懇親会を、両者の共催で「ふるさとのトップを囲む懇親会」の名称のもとで開催(以降毎年、同時期に開催されたが開催の表示は省略)
1991(平成3)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で2度目の優勝、「花山」にて祝勝会
6月 普賢岳噴火、火砕流が発生し大災害をもたらした
6月 総会(花山)の会場にて災害に対する義捐金の募金を行った
普賢岳大爆発に伴い緊急常任幹事会(花山)を開催、救援活動について話し合う
南高会の中に災害対策本部を設置、本部長に田代則春氏(有明)が就任
8月

普賢岳災害に伴い地元陳情団と当地災害対策本部との合同会議(花山)を開催、終了後、合同で国会他、関係機関への陳情、銀座でビラ配りと街頭募金活動を行う

9月 当地災害対策本部による国会他、関係機関への陳情、南高会で集めた1,000万人の署名と1,240万円の義捐金を島原の災害対策本部へ渡す
10月 島原生き残りを考える会のメンバーと、当地災害対策本部との打ち合せ会を開催(花山)
11月 有馬会長の紺綬褒章受賞祝賀会を南高会と神奈川県牛乳普及協会の共催で開催(花山)
1992(平成4)年 1月 島原生き残りを考える会と、当地災害対策本部との打ち合せ会と総決起大会を開催(大手町花山)及び合同で国会他、関係機関への陳情を行った
12月 島原半島広域市町圏組合協議会会長に吉岡島原市長が就任、また、鐘ヶ江前市長(会長)を功労者として表彰
1993(平成5)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で3度目の優勝、祝勝会を開催(花山)
6月 総会(花山)参加者320名と過去最高を記録
会の名称を「関東島原半島会」に変更することが決まった
1994(平成6)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で準優勝、祝勝会を開催(花山)
6月 関東島原半島会総会(花山)(今回より名称が変る)
1995(平成7)年 2月 相談役、島峰隆氏(島原)の藍綬褒章受賞祝賀会を開催(花山)
5月 相談役、田上艶子氏(島原)逝去
6月 幹事長に立石忠彦氏(国見)、事務局長に米田文夫氏(北有馬)が就任
1997(平成9)年 1月 初入閣の久間章生(加津左)防衛庁長官を役員有志により表敬訪問(防衛庁)
10月 有馬冨男会長ご逝去
会長選出について役員会を開催し島峰隆氏の推挙を満場一致で決定
 
   
  有馬会長が会長に就任された翌年、郷里では普賢岳の噴火災害に見舞われ、復興対策や支援活動に翻弄された時期でした。当地でも災害復興対策本部が設置され、地元の「島原生き残りを考える会」を中心とする陳情団の受け入れや、募金活動のために、忙しい時期に見舞われました。また、島原半島地域広域市町圏組合と共催して、地元の首長の陳情にあわせて「ふるさとのトップを囲む懇親会」を毎年末に開催することで、島原半島の地域振興に寄与する組織に発展しました。  
   
     
1998(平成10)年 6月 島峰隆氏会長に島峰隆氏(島原)が就任
9月 立石幹事長逝去
役員会において暫定幹事長に山本十一氏(島原)を指名
1999(平成11)年 6月 幹事長に山本十一氏が就任
10月 「大銀座祭り-音と光のパレード」へ長崎県の郷土芸能の中に関東島原半島会から50名が参加し、先頭の龍踊りに続き、「元気になった長崎県・島原半島へおいでください 関東島原半島会」の横断幕を先頭に、赤いハッピ姿の大島原提灯行列を繰り広げ、郷土・島原半島に代わって噴火災害下で寄せられた全国からの支援に対するお礼と、噴火災害からの復興をアピールした、思い出に残るイベントとなった(大銀座祭りはこの年が最後となる)
2000(平成12)年 5月 平静を取り戻した郷里を一目見ようと、会の役員が中心となって「島原半島ふるさとツアー旅行」を企画し、バス一台で、ハウステンボス・長崎・島原半島一周をして、元気になった美しい景色の島原半島を視察し、島原のホテルにて、島原半島広域市町圏組合の幹部有志より歓待を受けた
6月 総会(花山)で島峰会長の叙勲受賞祝賀会を兼ねる
12月 ふるさとのトップを囲む懇親会(品川プリンスホテル)に深谷元自治大臣が出席
2001(平成13)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で4度目の優勝、祝勝会を開催(花山)
11月 長崎県人会(赤坂プリンスホテル)の幹事を地域ごとの会で受け持つこととなり、関東島原半島会と諫早会が担当し盛況を納めた、ゲストに料理の鉄人中村孝明氏(島原)、サッカーの元日本代表の高木琢也氏(北有馬)、プロ野球の中村隼人氏(諫早)を招待
2002(平成14)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で5度目の優勝、祝勝会を開催(花山)
1月 相談役、田代則春氏(有明)の叙勲受賞祝賀会(花山)、を関東島原半島会、在京しまばら会、関東有明会、関東島原高校同窓会の四団体の共催で開催
2003(平成15)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で準優勝、祝勝会を開催(花山)
6月 第55回関東島原半島会記念大会を開催(赤坂プリンスホテル)、500名の参加を得て大盛況であった。次年度より総会の日は毎年6月第一土曜日に変更
2004(平成16)年 1月 国見高校、全国高校サッカー選手権大会で6度目の優勝、関係者400名が集まり盛大に祝勝会を開催(スクワール麹町)、また国見高校サッカー部へ金一封を贈呈
6月 総会の開催日が6月第一土曜日となる
12月 ふるさとのトップを囲む懇親会(赤坂プリンスホテル)、久間代議士の自民党総務会長就任祝いを兼ねる。また、島原半島の市町の合併が来年4月までに行われるため、今回が最後の会となった。広い会場の入り口には、各市町のカラフルな「のぼり」が飾られて雰囲気を盛り上げ、参加者も300人を超え盛会であった
2005(平成17)年 6月 会長代行に木原國夫氏(国見)、幹事長に中道利治氏(島原)、幹事長代行に山本十一氏(島原)、事務局長に平野康博氏(南串山)が就任
    事務局を平野事務局長の会社の事務所へ移転
2006(平成18)年 6月 会員名簿の見直しと、名簿の事務局一括管理を実施
11月 がまだす交流会(今までの「ふるさとのトップを囲む懇親会」に変るもの)を島原半島三市の市長、市議会議長出席の下に開催し盛会を極めた(東海大学校友会館)
2007(平成19)年 11月 役員会において第60回関東島原半島会記念大会の基本計画を承認
実行委員長 八幡秀昭氏(島原)、実行副委員長 山本十一氏(島原)、実行副委員長 寺田誠吾氏(島原)、事務局長 平野康博氏(南串山)
    関東島原半島会のホームページを開設
2008(平成20)年 3月 役員会において記念大会の具体的な実施要綱を承認
2008(平成20)年 5月 創立60周年記念大会を開催(東京プリンスホテル鳳凰の間)、キャッチフレーズは「ありがとうふるさと魅せます60年の底力」、763名参加し、会始まって以来の歴史的な記念大会となる
記念誌(124頁)1,000部発行
小学校の教材の充実を目的に3市へ図書カード贈呈

 
   
  島峰会長の代は、執行部の若返りと共に、総会の参加者も増加し、常時300名を超えるようになりました。中でも「大銀座祭り」に参加したこと、「島原半島ふるさとツアー旅行」で美しく元気になった島原半島一周旅行を行ったこと、国見高校のサッカー全国大会の祝勝会を4年続けて開催したこと、等々、毎年開催の総会のほかに、数多くの祝賀行事やイベントが行われ、郷里との一体感が強くなりました。また、時代の流れと共に、島原半島の市町の合併が実現し、関東島原半島会の年間行事の内容の見直しを余儀なくされました。  
   
 
2009(平成21)年 5月 島峰隆氏名誉会長に島峰隆氏(島原)、会長に福田学氏(口之津)、副会長に八幡秀昭氏(島原)、上村ともえ氏(口之津)が就任
     
     
     
     
     
 
 
   
 

あゆみの編集を終えて

 関東島原半島会創立60周年の記念誌発刊に際して「60年のあゆみ」を振り返って見ました。私と南高会との出会いは、上京して間もなくの昭和53年頃でしたので、既に30年近くが経過していました。
その間の経緯は、記録として残されているものは無く、また、当時を経験しておられる方も少なくなった。
現在、如何にして当時のことを知ることができるか、と悩みましたが、緒先輩方のご協力をいただき、どうにかまとめる事が出来ました。 特に、冨田美佐子様(島原)、宮城孝氏、吉富仁氏、本多忠則氏(口之津),伊達五郎氏(口之津)より当時の写真や貴重な資料をお借りし、木原会長代行所有のものを含めて、木原先輩と当時を回想しながら貴重な写真と資料を基にしてどうにか完成させることが出来ました。
ここに「60周年のあゆみ」を作成するにあたり、諸先輩方をはじめ、関係各位のご協力、ご支援を頂いたことに対し、心から厚く御礼申し上げ、感謝の意を表します。

関東島原半島会 副会長   下 村  弘

 
   
 
 
 
 
 
 
 
 
初代会長・北村西望氏(南有馬)
 
昭和33年4月南高会総会(井の頭自然文化園)
 
昭和35年11月南高会総会(船橋ヘルスセンター)で挨拶する冨田俊子氏
 
昭和51年11月忘年会、前列3人目より北村会長、富田世話役、平田副会長、反田副会長、田上艶子氏
 
昭和55年9月富士山麓ハイキングでの餅つき大会
中央・北村会長ご夫妻、左・久間代議士
 
昭和58年6月北村会長百歳記念祝賀会
中央・歌手のディックミネ氏、左・吉田光正氏、右・木原國夫氏
 
左から宮城孝氏、北村西望氏、反田邦治氏
 
昭和59年北村西望アトリエにて
中央・田上艶子氏、右・吉田光正氏
 
昭和60年1月第63回全国高校サッカー大会選手権大会で島原商高優勝
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平成2年南高会総会での有馬会長
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平成3年ふるさとのトップを囲む懇親会
左から岡本茂子氏、山本十一氏、鐘ヶ江市長、下村弘氏
 
 
 
 
 
 
平成7年2月相談役・島峰隆氏の藍綬褒章受賞祝賀会
 
平成9年1月初入閣の久間章生防衛庁長官を表敬訪問
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平成10年6月関東島原半島会総会
 
平成11年10月大銀座祭り-音と光のパレード
 
平成12年6月島峰会長の叙勲受賞祝賀会、島峰夫妻
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
平成16年1月国見高校、全国高校サッカー選手権大会優勝祝勝会
 
平成18年6月関東島原半島会総会、下田圭将力士と島峰会長
 
左から山本十一実行副委員長、八幡秀昭実行委員長、中道利治幹事長、寺田誠吾実行副委員長
 
平成20年5月創立60周年記念大会